外は、うだるような暑さだった。
夕方になってもアスファルトには昼間の熱が残っていて、
会社から店まで歩いただけで、首筋に汗がにじんだ。
居酒屋の引き戸を開ける。
「涼しっ」
冷房の風に、思わず声が出た。
席に着いて、迷わず生ビールを二つ頼む。
しばらくして運ばれてきたジョッキは、
白く曇るほど、キンキンに冷えていた。
細かな水滴がびっしりついて、
テーブルに置かれたそばから、ゆっくり流れ落ちていく。
「とりあえず、今日もおつかれ」
目の前の男がジョッキを持ち上げた。
「おつかれさまです」
カチン、とジョッキを合わせる。
一口飲む。
冷たい。
暑い日に飲むビールって、
なんでこんなにおいしいんだろう。
目の前の男は、そんなことを味わう間もなく、
ビールを一気に半分くらい飲んだ。
「今日も働いたな」
いつもの調子でそう言って、ビールを一気に半分くらい飲んだ。
声が大きい。
隣の席の人が、一瞬こちらを見る。
最初に会ったときも、同じことを思った。
——怖い人だな。
茶髪で、目つきが鋭くて、声も身長も大きい、電話はガチャっと切る。
年齢も私よりも20歳も年上で定年退職のない会社でひと際目立っていた。
正直、あまり関わりたくないタイプだった。
でも気づけば、こうして同じテーブルで飲んでいる。
私は42歳。
どこにでもいる、普通の会社員だった。
何か特別なことができるわけでもない。
これといって、やりたいこともない。
ただ生活のために働いて、子どもを育てて、
なんとなくここまで来た。
結婚する迄は、一人で生活して、おいしいビールが飲める生活さえできればよかった。
結婚して子供ができてからは、子供を育てるのに、とにかく近くて残業がなく、保育園や学校の休みと同じ場所を選んだ。仕事の内容は全く選ばなかったし、お金を貰う分、目の前の仕事を頑張ることはできた。
仕事×家事×子育て
それなりに頑張ってきたつもりだった。
でも、胸を張って言えるのは社会人になってから扶養にはいったことがないこと。
「これが得意です」
と言えるものはなかったし、
「この仕事がやりたいんです」
と言えるものもなかった。
子供が小学3年生になったタイミングで正社員で働ける小さな会社に就職した。
始めは久々の正社員で張り切って仕事をしたが、頑張れば頑張る程、残業が増えていった。
40歳を過ぎた頃だった。
会社の休憩室で、何気なく鏡を見たとき、
ふと、自分の顔に違和感を覚えた。
なんか、緩んでるな。
お菓子をつまんで、
楽な服ばかり選んで、
化粧も適当。顔も不機嫌な顔に見えた。
気づけば、文句ばかり言うようになっていた。
「忙しい」
「またこれやるの?」
口に出さなくても、
顔に出ているのが自分でも分かる。
やりたいことはないくせに、
「やりたくないこと」だけは、はっきりしていた。
40歳を過ぎて、怖いものは少し減った。
若い頃大嫌いだったお局様も嫌だったけれど
なんとなくうまく対応できるようになっていた。
でもその分、
何かを失っているような気もした。
——私、このまま終わっていくのかな。
私がお局様になってしまうのかな・・・
そんなことを、ぼんやり考えるようになった。
「でさ、それ違うんだよ」
目の前の男・・・・・部長が、テーブルに肘をつきながら言った。
相変わらず声が大きい。
口が悪くて、荒っぽい。
思ったことは、すぐ口に出す。
でもこの人は、いざというときには必ず前に出る。
クレームが来れば一番に矢面に立って、
納得できないことには、相手が誰でもはっきり言う。
そして不思議と、人がついてくる。
仕事終わりにで飲むようになったのは、
いつからだっただろう。
嫌なことがあった日も、
うまくいった日も、
とりあえず「乾杯」していた。
ただ最近なんとなく、仕事にやりがいがもてず・・・
もっとこうしたら、いいのに・・・っと大声で言えないことが多すぎて
どうしたらよいのかわからず、ビールで流し込む
そんな日の繰り返しだった。
「会社、やっちゃう?」
「やれるわけないじゃん」
笑って終わる。
いつも、それだけだった。
そんなある日、会社の社長が亡くなった。
80歳を超えても元気で、
ずっとそこにいる人だと思っていた。
通夜の準備でバタバタと動き回っていたとき、
ふと手が止まった。
夏の終わりを感じる涼しい風にのって白い花の匂いが、
やけに強く感じた。
「夏も終わるんだな」
その瞬間だった。
——あ、なんか壊れた。
自分の中で、
何かが静かに崩れた気がした。
うまく言葉にはできない。
でも、
「このままじゃダメだ」
と思った。
気づいたら、退職届を出していた。
深く考えたわけでもない。
次にやりたい仕事があったわけでもない。
ただ、
もうここにいたくない。
それだけだった。
三ヶ月かけて引き継ぎをして、
会社を離れた。
有給が、思った以上に残っていた。
何をするでもなく、
ただ時間だけが過ぎていった。
昼間にテレビをつけて、
なんとなくスマホを見て、
気づいたら夕方。
そんな日が続いた。
42歳、無職。一応主婦。
自分を変えたいと思って会社を辞めたはずなのに、
何も変わっていなかった。
そんなある日、電話が鳴った。
「ちょっと来れる?」
あの部長だった。
いつもの居酒屋。
いつもの席。
向かいに座った彼は、
少し間をおいてから言った。
「会社、やろうと思ってる」
いつもの冗談みたいな口調じゃなかった。
そして続けた。
「手伝ってほしい」
正直、迷った。
できる気なんて、まったくしなかった。
会社を作る方法なんて知らない。
経営なんて、もっと知らない。
経理の知識もない。
今と同じ生活費も稼げなくて家族に迷惑をかけてしまうかもしれない。
むしろ、不安のほうが大きかった。
でも。
心が動いた。
「人生、迷ったら楽しそうな方を選びなさい」
昔、どこかで聞いた言葉を思い出した。
42歳。
今さらなのか。
まだ42歳なのか。
私には分からなかった。
でも、このまま何も変わらないより、
ちょっと怖くても、
楽しそうな方へ行ってみたかった。
「……やります」
気づいたら、そう言っていた。
こうして42歳の私は、
62歳の部長と、会社をつくることになった。
ただし、このときの私はまだ知らない。
会社をつくるって、
会社を辞めるより、ずっと大変だった。
ここから、私たちの凸凹な起業生活が始まる。
→ 第2話「42歳と62歳、会社をつくる。」

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